仲が悪いわけでは決してない。
剛は隣でテレビ画面を食い入るように見ている兄を見上げながらそう思う。だからこの二人の間のほんの少しの隙間は何の意味も持っていないはずだ。
剛は一度見えない境界線を見て、また兄の顔に視線を戻した。
彼は剛の視線に気付かない。気付かないふりをしているのではなく、それだけテレビに夢中になっているというだけ。剛にはそれが何だか面白くなく感じた。
二人が見ているのはありふれたラブ・ストーリーの映画だ。擦れ違って傷ついて傷付けて、でも最後はハッピーエンド。まあ、真剣に見ているのは剛の兄―昌行だけなのだけれど。
薄暗くした部屋にテレビの明かりが眩しい。剛は眼を細めて昌行の視線の先で抱き合う男女を見ながら、そっと息を吐いた。物語は終盤に入りそろそろクライマックスだ。
ぐす、と鼻を啜る音が聞こえ剛は眼を閉じた。昌行はすぐ感情移入する。こんな名前も知らないちんけな三流映画にでも。
剛はもう一度だけ兄の顔を見上げた。瞳に滲むのは涙だろう。
感動よりも物悲しさを感じた。
* 水底の足跡 *
それは些細なことだった。いつものことだと言ってもいい。
ただ違うのはその日剛の虫の居所が悪かったことだ。
売り言葉に買い言葉、昌行はかっとなりやすい性格なので、売られた喧嘩は買ってしまう。つまりは似た者兄弟なのだ。
「もういい、兄貴は俺のこと何にも解ってない!」
「何が解ってないだ。お前は自分すらも理解していないくせにそれを他人に望むのか」
「兄貴は、解ってないよ。俺はぜってぇ止めないかんな!」
そう怒鳴ると剛は家を飛び出した。行く宛は在るようで無い。取り敢えず、近くの公園に向かうことにした。
公園について先ず思ったことは、雨が降っていなくて良かったということだ。そして次に昌行の言葉を思い出す。剛は畜生、とブランコに乗り地面を蹴った。
空へと飛び出しそうなくらい大きく、勢い良く漕ぐ。重力が体を地に落とそうとするのに抗いながら颯爽と風を切った。今なら、あの蒼空を泳げる気がする。手を離そうとした時、高い声に呼び止められた。
「あれ、剛?」
夢を壊されたような気がして眉を寄せた。視線の先に居たのは、茶髪の男。剛の友達の健だった。
何をしてるの?と健は剛の隣のブランコに座って首を傾げた。剛は何も言わない。健はその不機嫌な顔を見て、ああまたか、と思った。
「お兄さんと喧嘩したんだ」
「兄貴が悪いんだ。俺のこと何にも解っちゃくれない」
「剛はお兄さんが嫌い?」
「嫌い。…大嫌いだ」
俯いた剛に、健はとても眩しく笑って見せた。剛はその表情を見てはいなかったが、見ていたらあまりの無垢さにぞっとしたことだろう。それほど嬉しそうに、どこか壊れたように、健は笑った。
「剛、家に戻ろう」
「嫌だ。兄貴の顔なんてみたくない」
「俺が、何とかしてあげるから」
ね、と健はブランコから飛び降りて剛の前に立つ。逆光で見えない顔を見上げ、剛は暫し考えると、ゆっくり頷いて立ち上がった。
「剛が嫌いなものは、俺がみんなけしてあげる」
だってともだちだもん、と健は笑った。剛はただもう一度頷いた。
ピンポンとありふれた機械音が家の中に響き渡り昌行は勢いよく顔を上げた。あれから言い過ぎてしまったと反省し、一人で落ち込んでいたのだ。
剛かも知れない、と思い玄関まで走ったが、剛がチャイムを鳴らすわけがないと思い当たり肩を落とした。
扉を開ける。其処に立っていたのは健だった。そして、その後ろには、剛。昌行は困ったように笑い体を退けて道を空けた。
その横をお邪魔します、といって健が通り、無言のまま剛が通る。その後に続き、昌行がリビングへと向かった。
「ごめんな剛、言い過ぎた」
申し訳なさそうに昌行が謝って、剛が顔を上げる。弁解しようとした剛を遮って、健が口を開いた。
「もう遅いよ。もう剛はあんたの顔なんて見たくないって」
それに驚いた剛が健を凝視する。昌行も同じように健を見た。
「剛はあんたのこと、嫌いだって。だから俺はあんたを抹殺(け)すよ」
にっこりと笑った健が無造作に腕を横に振った。飛び散ったのは赤い液体。剛は声を出すことも忘れて叫んだ。
昌行もまた驚いたように自分の胸元から流れる血を呆然と見て、その場に崩れ落ちた。信じられなかった。ナイフなど見えなかったし、どうして自分がこんなことをされなくてはいけないのか解らなかった。
ひゅう、と喉が鳴る。空気が上手く肺に送れなくて、苦しげに眉を寄せた。
剛が昌行に駆け寄り抱き起こす。必死に傷を手で押さえたが、血は止まってくれなかった。
「兄貴!!しっかりしろよ兄貴!!!」
「ご…」
悲しげに昌行の瞳が揺れる。剛はその瞳に海を連想した。
深い深い悲しみの色だ。深い深い愛しみの色だ。視界が滲んでいるのは、涙のせいだろうか。
「嫌だ兄貴、死なないで!」
救急車を呼ぶのに昌行の傍を離れる時間さえ惜しいと剛は思った。どちらにしろ間に合わないことだけは漠然と解っていた。剛の手では救えないのだ。昌行の命を。小さすぎて掬えないのだ。彼の涙さえ。
「ごめ、な?」
昌行は酷く柔らかく微笑んで、そっと眼を閉じた。その瞳はもう開かれることはない。あの深い色の瞳が剛を映し出すことは二度と無いだろう。一筋だけ涙が頬を伝い落ちたそれさえも。剛は掬うことが出来なかった。
「兄貴?」
その体からまだ血は流れているのに、その胸はもう上下してはいない。彼の鼓動は止まってしまった。
どうして?
「健!!!」
ぎっと健を振り返り睨み付ける。視界が滲んでも、何故か健の姿だけはしっかりと捕らえることが出来た。
健は笑っていた。子供のように無邪気に笑っていた。剛にはそれが理解できなかった。
「どうして兄貴を殺したんだよ!?」
その叫びは悲鳴に酷似していたように思う。本当は健に掴み掛かってやりたかった。しかし昌行の体を離したくなかったので出来なかった。だってまだ昌行の体は温かかったから。
健はどうして剛が泣いているのか、怒っているのか解らないといったように首を傾げる。
「だって剛が、きらいだっていったから」
その台詞にぞっとした。そしてどんどん冷たくなっていく昌行に恐怖した。
もう笑わないもう喋らないもう動かない。もう、
「あーあ、やっちまったんだな、健」
急に思考に割り込んできた声に剛はのろのろと顔を上げた。視界に映ったのは昌行の友人だった。漆黒の髪に、細い眼。確か井ノ原と言っていた気がする。
剛は井ノ原をぼんやりと見詰めた。ただ彼を取り巻く雰囲気が違うと思った。もっと彼は明るい空気を纏っていたはずだ。今は裂くほどの冷酷な空気を纏っていた。
「井ノ原くん」
健は少し驚いたように井ノ原を見てから、嬉しそうに近づいた。
「これで、剛は俺のだよ」
「お前、間違ったな」
「え?」
ごほっと健が血を吐く。そしてそのまま後ろに倒れた。剛がひっと息を飲む。健はもう絶命していた。
健の心臓部分には細く長い針が刺さっていた。剛は体が震えるのを抑えることが出来ない。ぎゅっと昌行の体を掻き抱く。
「選択は一つだっていったろ?」
もう死んでいるのは重々承知だろうに、井ノ原は健に向かって言葉を投げる。健は虚ろな瞳で天井だけを見つめていた。
「剛を殺してお前も死ねば良かったんだよ。なのに坂本くん殺しやがって、莫迦が」
井ノ原は冷めた瞳で健を見下ろす。剛はもうどうすればいいのか解らなかった。
昌行はもう動かない。だからこの状況から剛を守ってはくれない。剛は動くこともままならず、井ノ原がゆっくりと近づいて来るのを見ているしかなかった。
殺される、と本能的に悟る。だけれど声も出ないし体も動かなかった。何よりも、昌行を置いてはいけなかった。
「残念だな…折角友達になれたのに…」
井ノ原の呟きが耳に届くと同時に剛の視界は暗転した。思考が遮断されていく感覚。痛みは、無かった。
在るのはまだ若干温かい昌行の体温と一体になったような、そんな錯覚。
だけれど確かに今、剛と昌行の間に境界線はなかった。
End.
何となく剛坂兄弟+イノ健コンビを書きたかった罠。
すっごい急展開だったな…(苦笑)
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