カシャン、と
弱々しく鳴ったフェンスが、今俺を支える全てだった。
Vivace
自分よりも若干高いフェンスを掴んでみる。意外にも強い感触
に、俺は少し驚いた。
本当に飛び降りる気はなかった。ただ高いところから広がる世
界をを見下ろしてみたかっただけだ。
錆びかけた会社の屋上に上るのは簡単で、少し笑えた。まるで
他人に余り干渉しないこの希薄な人間社会をそのまま写し取っ
たみたいではないだろうか。
見上げた空は吸い込まれそうに深いのに、決して届きはしな
い。いっそのこと吸い込まれてしまいたいのに、俺が空と一緒に
なれるのは一瞬で、あとは灰色の世界に墜ちるだけだ。本当
に、笑える。
現実とのギャップに落胆したんだと思う。助けてくれる人なんか
居ない。
自分で道を切り開いて、一人で生きて行かなきゃならないんだ。
押し付けられた期待に応えられない俺は必要ない。
それは悲しかったから、俺は必死に頑張ってきたのに。結局俺
である必要なんてなくて、俺は重責に圧し潰された。
誰にも解ってもらえないなら…
「死ぬのか」
唐突に声をかけられ驚く。人の気配なんてしなかったのに。
立っていた男は強面な顔だが、細身の長身に黒のロングコート
が妙に様になっていた。そう、どこかの…ホストみたいだ。驚い
ている俺をよそに男は続ける。
「死ぬなら他所でやってくれ。此処じゃ迷惑だ」
突き放すような響きに拒否を感じて、俺は男にまた落胆した。
他人の命よりも会社の体裁を気にかけるこの男は、やはりこの
うすら寒い世界の住人に間違いないだろう。
「死ぬのか」
男は再度問う。
「逃げるのか」
男は懐から取り出した煙草に火をつけながら続ける。揶揄の響
きはなく、男の瞳はどこまでも真っ直ぐだった。
俺は風に乗って流れてきた煙に咳き込みながら、睨み付けるよ
うに男を見る。
死に逃げる?冗談じゃない。
「俺は嫌だな」
ぽつりと男が呟いて、俺は少し困惑した。ゆっくりと男は移動し
ながら微かに笑った。
「だって怖いだろ?痛いの嫌だしさ」
その言葉に思わず吹き出しそうになった。だって顔に合わないこ
とを言うから。だけれど男は至極真面目な顔をしていた。その表
情に、今俺に真摯に向かい合ってくれているのは男だけだとい
うことを悟った。
そして思う。この名前も知らないこの男と、もっと話してみたい
と。
「…生きていくのも同じくらい恐くない?」
「そうだな…だが、人間最後はやはり生にすがる。
未来の未知よりも、誰も知らない死後の未知の方が恐ろしいん
だよ」
ふう、と男は煙を吐き出した。それは俺の思考みたく霧散してす
ぐ消えた。
「なぁ、何が怖いんだ?」
男が首をかしげる。
…何が?
そうだな、他人の眼が。評価が、期待に応えられないのが。
解ってる。俺は全てを社会のせいにして逃げてるってこと。
それでも。
「やりたくないことがたくさん有って、やりたくないこともたくさん
有って、でもやりたいことも有って」
ゆらゆらと視界が揺れる。まるで蜃気楼を見ているみたいに。
「人間は社会の歯車でしかないのにどうして夢を見るんだろう」
夢を見なければ与えられたことに徹することができるのに。だっ
てそうだろ?それしか知らないんだから、それ以外を望みようが
ない。
「…ダーザイン、て知ってるか?」
男が唄うように紡ぐ。眼を細めたのは光が眩しいからか、記憶を
辿っているからなのか、俺には区別がつかなかった。
聞き覚えのない言葉だ。俺は首を横に振った。それは俺の頭が
悪いせいじゃなくて、哲学とか倫理学っていうのは皆解らないと
思うんだ。
「ハイデッガーは「存在者の存在は、それ自体、一種の存在者
であるのではない」とし、存在とは作用であり、それによって、存
在者は存在者たらしめられる、とした。
「Da(そこに、現に)sein(在ること)が語源だ。彼は存在と時間を唱
えた。解るか?」
俺はまた首を横に振る。何が言いたいのかさっぱり、それこそ小
指の爪の先ほども理解できなかった。男は口端を上げてシニカ
ルな笑みを浮かべる。それはどきりとするほどかっこよくて、バカ
にされた感じはしない。理由はないが、彼も理解できてはいない
のだろうと思った。
「俺も理解不能」
ほらみろ、と思う。しかし口には出さなかった。
俺は男から視線を外して、また蒼と灰色の境界線をじっと見詰
める。
磨きあげられた大きな窓には、それよりも大きな空が映ってい
た。
「そこに居るのに、個人としては存在しない…、それが日本人の
特徴。よくいうだろ?出る釘は打たれる、能在る鷹は爪を隠す・
て。集団主義だから並列を好む。欧米は個人主義だから全く逆
だぜ?」
あ、俺ツアコンやってんだよ。結構面白いんだぜ?
男がまた笑っただろうことを空気で感じた。
「そうして自分の思い通りにならないことに拗ねて、お前は逃げ
るのか」
「あんたに何が解る!」
「今俺がお前について知っていることは、勝敗なんて解らない勝
負にさえ悲観して尻尾を丸めて逃げる負け犬だってことさ。
…なんて、な。俺もそうだったから」
俺は思わず男を振り返った。その顔は穏やかで、何かに絶望し
たような感じはない。
砂漠の砂が全てを隠してしまうように見えないだけなんだろう
か。
「人は歯車だからこそ夢を見るんだよ。これ、受け取ってくれない
か」
そう言って出されたのは何かのチケット。ミュージカルに興味が
ない俺には何だかさっぱり解らない。受け取ることを躊躇してい
た俺の手に、男は半ば無理矢理チケットを握らせた。
「諦めかけてた俺の夢、あの雨の日、がむしゃらに階段を駆け上
ってた男に励まされたんだ」
「…え?」
俺は男の顔をまじまじと見詰めた。それはあの日、くしゃみを連
発していた俺に、タオルを差し出した男に酷似していた。
突然の雷雨になす術もなく濡れながら、俺は走っていた。ギター
のオーディションの日で、もう時間はとっくに過ぎてたけど俺は諦
めたくなくて。人の眼なんて気にしないで必死に走ってた。
オーディションには何とか間に合って受けさせてもらえた。まあ、
結果的には落ちたんだけど。
その結果待ちしてる時だ。流石に冷えてきて、くしゃみを連発し
てた俺に差し出されたタオル。そのタオルは、まだうちに在る。
きれいに洗って畳んで袋に入れて置いて在る。
いつかビッグになったら返そうと思って。思って、忘れてた。がむ
しゃらになる気持ちも、夢を魅る気持ちも。
「お前のお陰で叶ったんだよ」
だから是非見て欲しい。忘れてるんだったら思い出して欲しいん
だ。
熱が隠ったをように言って、男は俺から手を離した。
「一足先に、舞台で待ってる。それ、俺の初舞台」
男がはにかんだような笑顔を浮かべた。
それは俺の眼にスポットライトのように眩く映った。俺が焦がれ
た、眩しいほどの。
何故だか眼の奥がじんと熱く、視界が滲んで声が出せなかっ
た。
男が靴裏で煙草を消し、懐から取り出した灰皿に入れる。それ
を見て、俺は今更ながらに男が移動したお陰で煙草の煙が俺に
かからなくなったことに気付いた。
END,
イノッチハピバ!
一度消したという噂の咄(笑)
ちなみに解るだろうけど男は坂本くんです。
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