俺は無力で、とてもあんたを支えることは出来ない。
でも、それを言い訳にしたくないんだよ。
君、という呼び掛けに俺は顔を上げることを躊躇った。
時間帯は深夜、場所は繁華街、の裏、連れ添い人なし。
どう見ても高校生な俺は補導する対象に十分為りうる。
ただ、今家に連絡して欲しくなかった。
俺ってばたった一人の家族の兄貴と喧嘩して出てきたばっか。
ちなみに左頬を殴られ流血中。
これ、マズイっしょ。
君、ともう一度男の声が俺を呼ぶ。
渋々と顔を上げれば、そこには長身で細身の男が俺を見下ろしていた。
「家出したのか?」
逆行で顔は見えない。
だけど、男の声が意外にも揶揄を含んでいなくて驚いた。
「こんな所に居ると補導されるぞ、ほらおいで」
何も反応しないでいれば腕を引かれ、近くの公園に連れて行かれた。
危ない男じゃないとは思うけど、俺から見たら十分変な大人。
月明かりと街灯が俺たちを照らし出して、
何だか陳腐な映画のワンシーンのようだと思った。
ジャアジャアと水の流れる音がバック・ミュージック。
キュッという音を合図に台詞が入る。
「これで冷やせよ」
投げられたのは濡れタオル。
何だこいつ、目つきの悪さに反して優しいな、なんて思った。
俺はブランコの一つに座り、男はその前の囲いに腰を下ろす。
歳は二十代後半とみたな。
男は俺の探るような視線に苦笑して首を傾げた。
「喧嘩したのか?」
「……別に」
「兄貴と?」
別に図星だったから押し黙った訳じゃないけど、男はそうは思ってないみたいだ。
ただ優しく微笑んで俺を見ている。
それは年下を愛しむ瞳だ。
何だか居心地が悪いと思った。
「痛そうだな、それ」
まるで自分が痛いみたいに顔を顰めて男は自分の頬をさすった。
それに少し笑ってしまって、こんな見ず知らずの人間に心を開きかけている自分を認めて驚いた。
「うん、痛いよ」
殴られたからってのも在るけど、認めてもらえなかったのが。
俯いた俺から何を感じたのか、ふわりと男が笑ったのを感じた。
「うん、痛いよな、二人とも」
「え?」
「殴る方も殴られる方も、痛いよ。外だけじゃなく、中も」
殴られた方が絶対痛いに決まってる。
俺が視線でそう言えば、男は笑みを広げて小さく首を振った。
「相手がお前を想っていれば想ってるほど、痛いんだよ。
きっと互いが相手を想ってすれ違っているんだ。
帰りなさい、そんでもって腹割って話し合え」
男の言葉は柔らかな物言いに関わらず、俺の心に鋭く響いた。
圧倒されたように頷けば、男はやっぱり笑った。
じゃあ、俺はこれで、と男が俺に背を向ける。
さほど広くない公園の出入り口に立って振り返り、小さくだが手を振ってきた。
「あいつはさ、お前が大切なんだよ、剛。
だから気にせず好きなことをやって欲しいんだ。
お前の気持ちも解らなくもないけど、あいつの気持ちも汲んでやってくれよ」
そう言って男は夜の闇に消えていった。
俺は呆然と闇に紛れたその背を見詰めていたさ。
何で俺の名前知ってるんだ?
俺、教えてないよな。
「剛!!」
入れ違いのように入ってきた兄貴。
その細い眼をいっぱいに開いて息を切らせて駆け寄ってきた。
「ごめんな、剛」
その手には携帯電話。
俺に連絡するためか、もしかしたらあの男が連絡したのか。
でも、どうやって?
「兄貴の気持ちも解らなくはないんだよ、
でも、兄貴だって俺の気持ちが解らなくはないだろ」
「うん…話しよ。和解できるまで、話し合おうぜ。−ごめんな、剛」
「別に…俺も、ごめん」
そう言えば兄貴は顔を綻ばせて、細い眼を更に細めて、笑った。
ふと視線を逸らすと、漆黒と翡翠の美しい羽を持つ蝶が眼に入った。
仲直りを喜ぶように、悲しむように、俺らの上を旋回して、きらきら光って見えた。
夜を舞う蝶が、まるであの人のように優しく、厳しく。
そして静かに闇に消えていった。
あの男がいつも兄貴が煩いくらいに話題に出す
「坂本くん」だと俺が知るのはそれから三日後のことだ。
彼はにやりと口の端を上げ、初めまして、剛くん、とか言って笑ったから、
俺も態とらしくお辞儀をして、初めまして、って言ってやった。
あの時の蝶が飛んでいた気がした。
優しく微笑む彼の、左肩の上辺りに、漆黒と翡翠の蝶が。
俺は見えないはずの蝶に眼を奪われ、
彼が俺を値踏みするように見ていたことに気付かなかった。
END
井+剛兄弟+坂小咄。
蝶の下りは題名にこじつけますた…。
えー、不思議話?もしかしたら続けるやも知れません。
一周年アンケートにご協力いただきありがとうございました!!
というオマケ咄でした。

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